鎌倉時代の故事を起源とする山北町・室生神社の流鏑馬(やぶさめ)が3日、神社前の道に砂を敷き詰めた約300メートルの特設馬場で行われた。
鎌倉時代の史書『吾妻鏡』には、「河村城主・河村義秀が源頼朝の石橋山挙兵の時、平家方に味方したため領地を没収され、斬刑に処せられるところ、建久元(1190)年9月3日に鎌倉八幡宮で行われた流鏑馬の妙技で旧領に復帰できた」とあり、江戸時代に編纂された『新編相模国風土記稿』に流鏑馬の行事が記されている。
流鏑馬は、3つの的の当たり矢(一の的:早稲、二の的:中稲、三の的:晩稲)の数によって翌年の稲作を占い、豊作の見込まれる品種を選ぶ目安とし、多くの矢を当てることにより豊作を祈願したと云う。
観衆が見守る中、露払いと射手が、金糸三巴刺繍の腹掛け、紅い陣羽織、鶏毛を立てた兜(かぶと)、縞柄の下履きに射小手という鎌倉武士を偲ばせる馬上姿も勇ましく登場。神職により榊で馬場を清めながら「垢離(こり)取りの儀」を行った後、馬上で日の丸の軍扇を上げる露払いに続き、射手が疾走する馬上から矢を放ち、90センチ四方のスギ板の的を“バシッ”“バシッ”と射抜くたびに大きな歓声と拍手が沸き起こった。
2頭駆けの流鏑馬は珍しく、騎射は3回行った後、露払いと射手が交代し、2回行われた。
(伊豆さがみ情報ネット)